過去観測所

縦書き作法

民芸と実感と計測と人間と

民芸
一般の人々が日常生活に使う実用的な工芸品。衣服食器家具などの類。民衆的工芸。柳宗悦(むねよし)による造語。[スーパー大辞林]より

民芸という言葉がある。"実用的な工芸品"であることが民芸であるとすると、風習のような行事も含まれ[るorた?]ため、民芸という言葉はかなり流動的だ。さらには、日本の民芸、別の国の民芸、日本の中のある地域の民芸、いや、人それぞれに異なる民芸があるのかもしれない。

ところで、いくら実用的であっても民芸という言葉と百円均一に並ぶような大量生産品は相容れないイメージがある。これは正しくて工芸品という言葉が含まれていることが規模の大いさを小規模であることに限定するためだ。小規模であるために歪さや最適化一歩手前が含まれているのは致し方ないだろう。民衆は緩い繫がりであり、繋がらないこともできる集団なのだから。そして、この歪さというのは、実用においては良い意味に作用しているのではないかと私は考えている。

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話は変わるが、某所に行ったとき「本当の"球"を感じることのできるもの」というテーマで作られた直径16cmくらいの丸い木の置物があった。面白いことに視覚的にはボールのような丸さは全くなく寧ろ歪さが目立った。しかしながら、目を閉じて両の手でコロコロ落ち着くように動かしているとたしかに本当に球なのだ。翻って、同じ大きさのボールを持ってみても"球"ということは感ずることは出来るとしても、その木の置物のような本当であるという実感は得られなかった。実感とは、計測ではなく実用の結果であるためかもしれない。

最小の表面積で覆える最も効率的な構造物は球? それだけなら糞食らえだ。

計測結果と実感が異なり歪なもの実用の一瞬に本当の"球"のような実感が生まれるとしたら、人はかなり動的であると言える。

本当の"球"のようなテーマそれ自体が組み込まれていないものにも、歪さの瞬間に何か分からないにしても本当の形を感じることができるものがある。たとえば、手捻りの陶器を回してみると、良い位置があったりする(それが分からない陶器は駄作か縁がないのでしょう)。そこがその陶器の正面なわけで、本当の球のような何かを投影してるのではないかと思う。

実用には、ファーストフードのようないつでもどこでも同じ味である必要はない。その一瞬が分かり、その一瞬が切り取れれば満足なのだ。そして、そもそも人間である個人それ自体が歪であり、その一瞬において人間であれば良いのだ。